子供の誕生日に「おめでとう」の一言も言わない母。
ずっとモヤモヤしていたことがある。
誕生日に母から「おめでとう」と言われることがないのだ。
子供のときは、ケーキやプレゼントやお祝いイベント的なこともしてくれていた。
中学か高校生くらいのときからか、いつしかそういうことが無くなった。
保育園や学校でお誕生会というものがあった。
子供たちは「誕生日はプレゼントをもらって(あげて)、ケーキやごちそうを食べ、みんなでお祝いをする特別な日」という刷り込みをされた。
クリスマスも同じような感じだった。
子供にとって、誕生日とクリスマスは特別なイベントだった。
お正月は、母の実家に行って親戚一同でごちそうを食べ、お年玉をもらう日だった。
それが、いつからか、ウチでは「特別な日」の存在が無くなっていた。
子供たちも、家族とのお祝いよりも、友達同士でプレゼント交換などをするようになった。
高校からは、親からのプレゼントはまったく無かったと思う。
その代わり、部活で使うトレーニングウェアや靴、通学用自転車、学用品、外出用の洋服など、必要な物を都度買ってもらうので、プレゼントが無くても文句はあまりなかった。
母がくれるプレゼントはピントがずれているので、あまり欲しいとも思わなかった。
(変なデザインのクッションの作り方が載っている本とか…。それでも嬉しかったけれど…)
大学に入って一人暮らしをするようになり、社会人になり、母とは連絡も帰省もほとんどしなくなった。
10年くらい前か、ふと、気づいた。
誕生日に母から連絡がない。
以前は彼氏や友達付き合いが充実していたから、気づかなかっただけかもしれない。
子供の誕生日に「おめでとう」の一言も言わない母。
私も母に言っていたか、覚えがない。
そのことに気づいてから、私からは母に「おめでとう」とメールをするようになった。
何度かプレゼントも贈ってみた。
しかし、母からは相変わらず、「おめでとう」の連絡すらない。
寂しく感じた。
ある説では、「誕生日は親に感謝する日」だと言う。
まぁ一理ある。
しかし、私自身、生まれてきたくなかったと思うので(悩みや病みがあるわけではなく、単に人間の日々の営みがめんどくさいだけ)、感謝なんてするどころか、勝手に生まないでほしかったとすら思う。
「生んでくれてありがとう」なんて嘘は言えない。偽善的で気持ちが悪い。
最近、あるブログで読んでしっくりきたことがある。
「誕生日に親にお祝いをされたことがなかったから、子供にもしない」
母も多分、これだろう。
母は兄弟がたくさんいて、末っ子である母以外は皆子供のときから家事や仕事を手伝っていたそうだ。
母と長兄は親子くらい年が離れていて、母は勉強もでき、手伝いなどまったくせず、非常にかわいがられて甘やかされて育ったそうだ。
でも、子沢山なのでいちいち誕生日など祝っていなかったと思う。
母の親世代なんて、それこそ、誕生日なんて概念もなかったのではないだろうか。
調べると、やはりそうだった。
「もともと日本には誕生日をお祝いする習慣がありませんでした。昔は「数え年」で年齢を数えることが普通で、お正月がくるとみんな一斉に年をとっていたためです。日本で個人の誕生日が祝われるようになったのは、昭和24年に「年齢のとなえ方に関する法律」が制定されて以降に、満年齢での数え方が普及しはじめてからだと言われています。海外においても、誕生日は、神の生誕を祝う日として宗教的な意味合いが強いものでした。イエス・キリストの生誕を祝う「クリスマス」などが代表的です。」
母は昭和22年生まれだ。
日本で誕生日が普及する少し前だ。
そう言えば、母の父、つまり私の祖父の誕生日を知らない。聞いたことがない。
その後、誕生日祝いやクリスマスが西洋から伝わって、商業的戦略でケーキやプレゼントが広められていったのだろう。
私たちが子供の頃には、学校などでイベント行事として普及し、子供の意識に植え込まれ、「それが当たり前」という社会的慣習になっていったのだろう。
その始まりの頃の親たちは、子供を喜ばせるためと、世間体のために、なんとなく流され従ったという感じだろう。
流行とは「流される行い」なのだ(笑)
今で言うと、ハロウィンだ。
私にとっては、ハロウィンなんてまったく関係ない、ただの普通の日だ。
今や、クリスマスやバレンタインなども、私にとっては何の意味もない。
子供や恋人がいる人限定のイベントなのだ。
西欧のような宗教的意味がないのだからそんなものだ。
母が積極的にイベントごとをしなかったのも納得できる。
シングルマザーでフルタイムで働いていたため、家では必要最低限のことしかしない母なら当然だ。
私の中では「親は子の誕生を祝うもの」という思い込みがあったので、そうしない母は私のことが嫌いなのだ とすら思っていた。
母は人間関係が不器用な人で、愛情表現も乏しく、その影響を私も受けている。
自分自身の嫌いなところが似ているから、母を見るのが嫌なのだ。
その象徴が、誕生日なのだ。
誕生日が近づくと憂鬱なのは、年を取ること以外にそういうことがあったからだ。
私も、母に「おめでとう」と言うのは、もうやめようと思った。
意味がないのだ。
母からすれば「別に」という感じなのだ。
こちらが言って、相手から言われないと、なんだか残念な気持ちになる。
期待するからがっかりする。
自ら進んで嫌な気分になっていただけなのだ。
私はまだ、母親の愛情を欲する精神的子供だったのだ…。
誕生日祝いなんて、そんなもの、無くてよいのだ。
案外、そういう親世代(今の70代以上)は多いようだ。
30代の人でもそういう人はたまにいる。
私が知るきっかけになったブログにあったのは、幼子に誕生日祝いをまったくしない旦那さんに不満を持つ妻のエピソードだった。
それ以外にも旦那が子供に関心がなく、家事を手伝わないので不満でいっぱいだったようだ。
結果、離婚を前提にした別居をしたそうで、そこからブログは止まって数年が経っている。
ブログを書くどころではなくなったのだろう。。
その旦那さんも、親から誕生日祝いをまったくされなかったそうだ。
旦那さんの毒親のエピソードも添えられていた。
私なら原因がわかって「それは仕方ないな」(納得)と思うのだけど、当人からすると「これはダメだ。早いところ別れよう」(諦め)となったようだ。
そもそも、結婚したくなかったそうだ。なぜ結婚したんだろう…?デキ婚かな…?
そんな状況で二人子供がいるそうで、しかも持ち家のローンもあるそうで、夫婦とは不思議である。
親から受け継ぐのは遺伝だけではない。所謂、育ち。
しかし、考え方や生き方は自分で選べる。
私もかなり母からの影響を受けているが、母みたいにはなりたくないと思う。
でも結局似てしまうのが、非常に嫌なところ。。
しかし、誕生日祝いには特に意味がないということがわかり、気は楽になった。
私も、別段、誕生日なんて祝わなくていいな と思う。
FaceBookでも、誕生日は公表設定していない。
いちいち「おめでとう」を言わせるのが気が引けるからだ。
同じ思いだろう、最近は誕生日を非公表にした人が多くなった。
未だに誕生日を公表している人は文字通りおめでたい人だ。
今年の誕生日は、本気で忘れていた。
「あ、今日だったか。」と夜に思い出したくらいだ。
数年前は寂しく感じていたが、今は、誰からも「おめでとう」を言われなくても、まったく寂しくも悲しくもなかった。なんでもない日なのだ。
吹っ切れた感が清々しい。
一人で生きていくのも、すっかり当たり前のこととなった。
むしろ、人と一緒に生活するなんて想像もできない。
仙人の域にたどり着いたのだろうか(笑)
誰にも期待しない、期待されない、本当に気が楽である。
自分のしたいことにだけ集中できる。
とはいえ、健康であるうちは気楽でも、一人で動けなくなったときはどうなることか、恐ろしい。
健康だけは気をつけなくては・・・
母のことは少し気がかりだけど、見て見ぬフリをしている。
母には、一人で生きるお手本として、がんばってほしい。