40で生まれ変わる

40才からの楽で気ままな生き方を模索するブログ

幼な子われらに生まれ を見て。

12歳の薫は思春期や初潮の気難しい時期に、継父と母との子供ができて反抗期になる。また父親に捨てられるだろうという恐怖。

最初は、無意味に反抗していて、見ていてむかついたし、優しい継父(信)にわがまますぎと思ったけど、失う恐怖ってそれ以上のどうしようもない感情。

薫の実父がどうしようもないダメ男で、DVされて歯も折られたのに、実父に会いたいと言ってしまう気持ちもわからんでもない。でも私なら、いくら継父への当てつけだとしても、実父に会いたいなんて気持ちはまったく起こらないだろうな。薫は継父へのただの当てつけ、継父が実子と会ってるからずるいとかそういう理由。

それでも継父は、会いたいというなら会わせるしかないと、もうなんなら実父にお金を払って薫を預けたっていい、その方がいいという気持ちすらある。

 

この映画がよかったのは、継父も、「もう子供おろして別れよう」と今の妻に言ったことだ。

それまではみんなの言うことを聞いて、相手の気持ちも深く考えずにそのとおりにしてきたけど、ついに自分の気持ちを吐き出した。逃げ出したい。それを吐けた、自分の弱さを見せた、それが一番よかった(一番ひどくて残酷なシーンでもある…)。

 

継父が思い直したのは、実子(沙織)が本音を打ち明けてくれたからだ。

沙織の継父が死にそうなのに心から悲しいとか思えない と。でも、最後には本当に悲しいという気持ちになった、それを見届けたから、信は、薫の気持ちもわかろうとした。

まぁ、ここは、都合やタイミングが良すぎるかな とも思うけど。


そして、薫の実父に10万円払って、薫と会ってくれるよう頼んだ。

当日、薫は会いに行かなかったし、ウソをついた。

信は、薫を迎えに行くためか、妹のエリコを連れて待ち合わせ場所に行った。

実父は着慣れないスーツを着て、プレゼントまで用意して待っていた。あの10万円でスーツやプレゼントを買ったのか…。意外といいとこあるやん。見栄もあるし、子供の期待に応えたいのもあったのかな。多分、信もそれを感じたと思うけど、何も言わなかった、そこもよかった。(このダメ父がクドカンてのもよかった。)

実父はまだ幼いエリコ(次女)を見て、幸せそうでよかったと少しは思ったかもしれない。

子供は嫌いだ、煩わしいというのもわかる。信だってそういう気持ちもある。

 

帰宅して、信は、薫に「ウソをつくのと約束を破るのだけはダメと言ったでしょ」と叱る、薫は頷く。そして信は薫に気持ちを聞く。

前の妻に「あなたは理由ばかり聞いて私の気持ちを聞かない」と言われたことがわかったんだろう。


薫は少し信を信頼し始めたようだけど、祖母のうちで暮らす選択をしたようだ。まだ不安があるのかな。自分がいると空気を悪くしてしまいそうで悪いという気持ちからか。

そして子供が生まれた、というところで終わる。

 

数年経ったらエリコの反抗期も始まるだろう。エリコには状況やパパの気持ち(今のママと子どもたちが一番大事)を説明したから、薫ほどではないだろう。でも、そのときに、継父の態度や言動が伴っていなければ、それが嘘だとしてもっと責められるだろう。子供は親の嘘や詭弁は特に許せないものだ。

その「今の家族が大事」という言葉を一緒に聞いていた今の妻の立場を考えると、身重の妻に「おろして別れよう」と言った人を私は簡単には信用できないと思うけどな…。

それと、「今は」「一番」という言葉が引っかかる。それはつまり、「未来」は「何番目」かわからないという意味でもある。

現に、「前の子供はじゃぁ何番目なの?」「自分の子供が生まれたら、血の繋がらないエリコや薫は何番目になるの?」と問いたい。

そこまで勘ぐるのは無粋かな。

しかし、「一番」とか「大事」とかいう言葉に、 信憑性はない と個人的に思う。そのときの感情でしかない。嘘くさい。

 

今の妻は、前の妻に比べてバカっぽく見えるが、実は鋭く強かで賢いと思う。あえて前向きに子供を作ったのもそうだ。

きちんと、「この人はいつまでどこまで信用できるか」を多分、常に注意深く見定めている。

前夫よりはだいぶマシだし、子供を大事にしたい気持ちは本当だと思う。 信は、妻の気持ちは結構ないがしろにするが、子煩悩ではある。

とはいえ、子が生まれる場面で、久々に会う、複雑な表情の薫に、満面の笑みを浮かべる信を良い夫・良い父親とジャッジするのはまだ早いと思う。これから実子と継子との関係にも頭を悩ませることになるだろう。

まぁ、あまり疑ってかかるとそうなってしまうので、未来はわからないけど、今は信じるのが正解だと思う。

 

子の反抗は、親を試している。本当に愛されているのか。親の資格があるのか。親からの愛情が足りないと感じ始めたら、自分でもわけがわからず、そういう試し行動をしてしまう。

養子になった子がはじめにするのがそれだそうだ。子供が生きていく上で親の愛情は欠かせない、本能がそうさせる。

 

思春期に反抗期が起こるのは、それまでは子供ゆえ気づきもしなかったことが、大人になってきてわかってくるからだろう。大人の事情も理解してきて、自分ならこうするのに、親はしてくれない とか。

 

私の反抗期は、中学3年~高校生のときと、30代半ばだと思う(笑)。

母は反抗期がなかったから、いまだに子供だと思う。私より子供っぽい。一応、完璧でなくとも親としてがんばったから、私よりは上か。

 

私はいまだに子供意識が抜けず、親になることから逃げた。寂しい人生を選んだのは自分。子供が好きだからこそ、悲しい思いさせたくない。クドカン演じる実父は、多分そういう気持ちもあったと思う、自分の親からの愛情がなかったから、そうなってしまったんだろう。愛情のない親の子は、子供を欲しがらない、そんな愛に欠けた遺伝子は淘汰されて消える、うまくできている。

それでも、女が産んでしまったら、そういう遺伝子も残ってしまうけど。

育ての親が愛情を注げば、その愛情の遺伝子は受け継がれるかもしれない。

愛情は人と環境が育むものと思う。それと、自らの勇気と気づきによって愛情は発生する。

愛情には責任が伴うし、楽じゃない。それを選ぶ人は、伴っていなければバカだし、伴っていれば尊い

愛情は責任。

実父は無責任だけど、それを自覚してるから、「子供も結婚もいらない」と突き放したが、それも責任を果たしていると思う。寂しさと引き換えに。

無責任なのは、愛情を与えないのに子供や家族を欲しがる奴(つまり、バカ)だ。

自分が寂しい、孤独が嫌だという理由だけで結婚し、家族を作る奴(つまり、小心者)だ。


この映画は、珍しく、父親目線の、父親の立場をきちんと描いている。

父親は、母親みたいに子との物理・生理的な繋がりがないから、実父であっても、自分の子だという実感や愛情が沸きにくい。それはかわいそうでもある。

家族の中で仲間外れに感じる人も多いかも。

実際、稼いで養うだけでいいとか思われるし。外で働いてるから子供との時間もつながりも少なく、ありがたみを感じられない。家に帰るのもためらう(映画の中でクドカン演じる実父も言っていた)。居場所がない。それはかわいそうだ。

男はひどい、軽薄、無責任と思い込んでいた気持ちが和らいだ。

男にも苦悩があるんだろう。


(私の父は、母から聞いた話によると、クドカン演じるダメ実父に似ている。身体的DVはなかったが、経済的DVが離婚の一番の理由だったようだ。子供の食べる米すら買えなくなって決意したそうだ。

4~5歳のときに離別したのでほとんど父の記憶はない。

母が一時期、離婚後の準備をしに行ったか何かで家を出ていたときに、父が女を家に連れ込んで寝ていた(行為までは見てないけど、父の寝室の布団の横にブラジャーが転がっていた。もしかしたら、父と女はまだ眠っていたのかもしれない、そこは記憶が曖昧。)のは記憶にある(最悪w)。

数年前に母に「そういえばこんなことあった」と言うと、母は「知らなかった」って。母が「一度くらい結婚してもよかったのに」と何度も言うので、「こういうことがあったから男を信用できないし、結婚したくないのもあるんだよ」と言ったのだ。

いまだ、父に会いたいとは微塵も思わないし、何の感情もない。)

 

 信は、前の妻からも継子からも責められるけど、前妻にしたって別れてだいぶ経ってから「私の気持ちを聞いてくれなかった」と被害者ヅラするけど、そのときちゃんと言わなかったのは悪くないの?と思う。当時の信が自分の都合ばかり押し付けて責めてくるから言えなかった、言う気を無くしたのはわかるけど。

薫にしたって、自分でもわからない気持ちに苦しむのはわかるけど、それこそ信にわかるわけがない。

 

今の妻が、妊娠の不安を話したとき、信は「そんなことを言われてもわかんないよ、おろして別れよう」とキレた。今の妻と薫が喧嘩したとき、信は「うるさい!」と無理やり止めた。あぁ、前妻が気持ちを話せなかったのは、だからか…。

信は、子供に対しては「まだ子供だからわからないのは当然」と丁寧に対処しようとするが、大人の女(妻)に対しては、「同じ大人だからわかって当然」とも言いたげに、結構厳しく理不尽で聞く耳を持たないモラハラ亭主である。

 

信は、わからないわからないと悩みながらも、薫の気持ちを知ろうと努力する。

信が実子の気持ちを聞いた後の反応が、簡潔にまとめようとしたり、ちょっとずれた感じもしていて、男脳はこう単純に解釈するのかもな…とおもしろかった。

「そういうもんだよ。仕方ないよ。」「本当の親子じゃないからね。」で片付けてしまう。

信が相手の気持ちをちゃんと理解できているか と言うと、疑問だ。

でもそれでも、気持ちを知ってもらっている というのと、お互い知らないままでいる というのとは、かなりの差がある。

そもそも、気持ちを伝えても、完全に理解することは難しいのだ。

 

私の母の場合は、「そうなの?知らなかった」というくらいで、しばらくしたら忘れていそうだ。

言ってもわかるのかな?無駄かな…と思うと、気持ちを言いたくなくなるんだよね…。でも、「結婚してみればよかったのに」は言わなくなったかな。

 

この映画は非常に常識的で、普遍的で、道徳的な、正しい映画だと思う。こんな偏向的な私にも理解できたし響いた。これが理解できる私は、自分で思っているほど偏向ではなく、常識も良識もあると思う。

 

責任感があるからこそ、エゴで結婚したり子供を産んだりしない。自分が孤独で寂しい人生であっても、自分のような苦しみを子に与えたくない。

それを優しさだとわかってもらいづらいけど、それを理解してほしい。

生涯独身の人を、身勝手で寂しい人だと安易に決めつけないでほしい。

それぞれの人生を尊重して理解してほしい。

 

人は一人では生きていけないけど、人と関わると、良いことも悪いこともある。

悪いことにも目を反らさず、都度対処し続けないといけない。

 

 この映画で学んだことは「人の気持ちを聞く・自分の気持ちを話す」。

それに尽きると思う。

 

ただ、気持ちを話し合うのはそのときに。

気持ちから起こった言動が終わった後、つまり事後に言っても、それは言い訳にしかならない。

気持ちには、鮮度がある、時間が経つと腐る。

都合のいいように付加したり拡大したり、自分の行動に繋げたり後付してしまう。

 

取り返しのつくうちに、気持ちをぶつけ合いましょう。なかなか難しいけどね。

日本人には特に苦手なことだ。