40で生まれ変わる

40才からの楽で気ままな生き方を模索するブログ

嫌われる勇気を持てる人。

「嫌われる勇気」というドラマ、テーマとしてはおもしろいです。

けど、ドラマ自体の内容は今ひとつ。刑事ものってワンパターンで退屈です。

主人公が毎度、決めゼリフと決めポーズを取って解決。飽き飽き。

 

アドラーとか心理学とか、全然詳しくないので知らないのですが、ドラマで言われる定理自体は、自分の考えに近いなぁ と思うことが多いです。

ただ、あんな完璧に定理を通すことは不可能だと思います。

 

つい最近まで、今も、私は、「人から好かれたい」と思っています。

それが生きる上で有利だからです。

嫌われるようなことをすると、後で内省することが多いです。

 

でも、誰にでも好かれたいわけではなくて、自分が合わないと思う人にはあえて嫌われるようにすることもよくあります。それが自分にとって安全だからです。

人によって、距離を取ります。

好きな人には近くなる というか、近くに入ることを許す。

好きな人は近づけ、嫌いな人は遠ざける。

みんな、無意識でも意識的でも、よくやっていることです。

 

 

「嫌われる勇気」はおもしろいテーマ、定義です。

「嫌われること=自由」だと。

 

確かに、昔は、嫌々飲み会や集まりに付き合って「楽しくもないし、お金がもったいなかったな」と思うことが多かったですが、最近は、行きたくない集まりは断っています。

行くということは、何かを期待して行くのですよね。

でもその期待がさほど叶えられない。だから行きたくなくなる。

毎回行く人、自ら幹事をする人は、何かを叶えられているのでしょう。

私は、好きな人とサシか、好きな人たちだけ少数でなら、参加したいです。

 

ところで、「好きな人」というのがそもそも定義崩壊していないでしょうか?

嫌われる前提なら、自分は誰からも好かれない、誰のことも好きにならない、それが自由なのでは?

人を好きになると、その人に好かれたくなる。

途端に自由が無くなります。

 

都合のいいときだけ「嫌われる」選択をしているだけです。

 

だから私には、まだまだ「嫌われる勇気」なんて手に入れられないのです。

好きな人の前では「いい人」を演じたりもします。

いい人=好かれようとする。

人の心を掌握しようというコントロール願望です。

そんな自分を客観視して、自分が嫌いになります。

 

「嫌われる勇気を持つこと=自分を好き、自分が一番、自分を優先」なのかな?

人に好かれようとすると、自分が嫌いになるのかな?

 

「嫌われる勇気」=「自由」=「自分にとって利益」…どうだろう?

自立していれば、嫌われようが好かれようが関係ないですよね。

 

もし、「周りの人の力が必要=依存」しているなら、嫌われたら死活問題です。

「依存=不自由」を自ら望み、それが安心だと思い込んでいる。

 

「嫌われる勇気、自由」を手に入れられるのは、よほど自立した人にしか無理でしょう。

 

私が「嫌われてもしたいようにする」と実行できたことは、せいぜいこんなものです。

  • 町内会の加入を断った
  • 飲み会を断った
  • 相手が間違っていると思ったら苦言を呈す(話が通じそうな人にだけ)
  • 嫌いな人を避ける
  • したくないことは断る
  • スマホを持たない(近々必要になって持つことになりそう…いやだ)
  • 帰省の頻度を少なくしようと思っている(母との確執が起こりそうで…)
  • 年賀状を廃止した、届いても返事しない
  • 自分の意志を第一に、引き止められても会社を辞めた
  • 人の意見に流されない

などなど・・・

 

どこからが「嫌われる勇気」で、どこからが「単なる付き合いの悪い奴」なのか、線引きがよくわかりませんが…。

 

大事なのは「嫌われたい」のではなくて、常に自分に正直であること。

それに対して、好きか嫌いかは、相手が決めること。

 

常に自分に正直であることです。多分。

 

今度、本を読んでみようと思います。