40で生まれ変わる

40才からの楽で気ままな生き方を模索するブログ

40独身女の生き方。

雨宮まみさん という文筆家が亡くなられました。

40才になられたばかりらしいですね。

 

そして奇しくも、ブログや記事で40才について書かれていて、死を望むように取られる内容もあったとのことで、「事故ではなく自殺では?」と世間では囁かれているようです。

 

真意は誰にもわかりませんが、「40独身女の寂しい孤独死という単純な見方をされてしまうのは仕方のないことでしょう(誰もそんなこと言ってないって?)。

 

私も先日、誕生日を迎え、42才になりました。

40過ぎて2年も経れば、40代もこ慣れたものです。

40才になりたての頃よりも、まったく平常心です。

堂々と「40代」と、自分には言えます。

 

でも、最近は他人には年齢をなかなか言わなくなりました。

 

40才になりたての頃は、初対面でも「40才です」と笑顔で答えていました。

自己紹介で自分から言うくらいでした。

ちょうど環境が変わって人と知り合うことが多く、「何才だろう?」と思われたり、後で聞かれて、おずおずと答えるのが面倒だったのもあるでしょう。

「40才だけど、年とか気にしてないよ」というアピールでもあったでしょう。

若く見られる自信もありました。

 

しかし、その場に同じ年や40代の女性の方がいた場合、私の年齢を言った瞬間、なんだか気まずい空気を感じました。

男性は一瞬「え?」と驚いた後、「そんな年に見えない」「若い」「30才くらいに見える」とお世辞を言ってくれますが、妙齢の女性は大体ノーコメントで目を反らします。

 

どっちにしても気まずいな…、初対面(親しくない)の人に気を遣わせているな… と思い、聞かれても必要でなければ言わないことにしました。

 

今の環境では年齢は言っていません。

飲み会などでは、数人の男性から聞かれますが、はぐらかします。

 

恐らく、私の発言が結構年寄りで(時代の話とか、同年代でウケる部分とか)、私から見てほとんどが年下なので上から目線な発言、説教だったりで、「あれ?この人、自分より年上かしら?どう接すべき?」と思われるのでしょう。

 

上から目線なのは若いときから(女王様、S的)なのですが、そこに説教や「若い人は…」などの年寄り言葉が入るので、20代の明らかに若い人はともかく、30代~40才前後の男性は「あれ?この人なんか偉そうだけど?」というように思うでしょう。

 

「○さんて何才なの?」「干支は?」と聞かれて、逆に「何才に見えますか?」と質問で返し、「30才」などと言われて「じゃぁそれでw」と返します。

それでもしつこく聞かれたら「永遠の28才」と答えます。

それでもだったら、「あなたに関係ないでしょ!」とキレ気味に終わらせます。

40才を過ぎて自分の年を公表して得をすることなどありません(実証済み)。

恥ずかしいとかではなく、損得で考えて言いません。

 

上下関係をはっきりさせて、「失礼のないように」とか、「適した会話をするために」 という意味でも、年齢を聞きたいのだと思いますが、そこはこちらが判断します。

逆にこちらから年齢を聞くことはありません。男性は大体は聞かれずとも自分から言ってきますけどね。

 

だから、私の年を知らなく私より若い方から逆に「年上からのアドバイス」的なことを言われたり、「若いからまだ~だよね」とか勘違いをされると、内心「うーん、年を言った方がいいかな」とは思うものの、相手との関係性で必要かを判断して、そんなに深い関係ではなければそのまま流します。

 

万一、告白をされたり、付き合おう とかいうことになれば、言わなければいけないでしょうけど。

そんなことはめったにありません。

告白などされてからでも遅くありません(自分勝手w)。

 

***

 

「40才」は女性にとってはかなりの節目です。

特に独身女性にとっては、恐ろしい到達点です。

「もう女ではなくなった」「人生終わった」 というくらいのダメージがあります。

 

特に「40才になるとき」が一番恐ろしいです。

自分では若い頃とあまり変わった気がせず、異性への興味も性欲もあるのに、「40才」と表記せねばならなくなった時点で、いろいろな免罪符が奪われた気がします。

男性からは異性として見られなくなります(実際は必ずしもそうでなくとも)。

子供もまだ閉経までは産めるかもしれないけど、高齢出産のリスクもあるし、結婚相手にわざわざ高齢を選ぶ殊勝な男性など、ほとんど存在しないでしょう。

「商品価値ゼロ」の烙印を押されて、捨てられてしまうのです。

 

そんな感じです。

 

でもまぁ、それでも別にいいか という気もします。

元々、恋愛に積極的でなかったから今も独身だし、異性と付き合うことに面倒を感じていたので、せいせいした部分もあります。

二人で飲みに行くと、こっちにそんな気は無くても、男性はホテルに連れ込もうとします。

好きな相手ならともかく、まったくそんな気にならない相手だとセクハラ、性犯罪にしか思えません。

「男友達」が欲しかった私には、この「女ではない」年齢は都合が良くも思えます。

(とはいえ、いつでもそうとは限りませんが…人を好きになるとね、180度変わりますねw)

 

男から見た「女としての価値」という領域が自分の中に無くなった今、「自分は何がしたいんだろう?」「これからは仕事と自分の生活だけ考えればいい」「お金を稼ぐには、こんな仕事をするためには、どうすればいいか?」など、優先順位が変わり、割り切り自分に必要なことだけに集中できるのです。

 

恋愛や人間関係は人生で重要ですが、誰にでもそうだとは思いません。

 

私の場合は、幼少期の経験や環境や家族との関わりにより、子供の頃から「他人への愛情や期待、信頼」がかなり欠けています。

それではいけない、人は一人じゃ生きていけない、愛情に欠けた人生なんて悲惨だ、楽しくない

…と、自分でも思っていたし、他人からもよく言われます。

けど、本当にそうかな?と思い始めています。

 

人は本当に一人(プライベートの範囲で)では生きていけないのでしょうか?

 

私も数年前までは、人並みに恋愛をしてきました。

けれど、心から愛したことがあったか?と思い返すと、なかった気がします。

自分を好きになってくれる人が求めてくれるから一緒にいただけです。

そして、同棲をしていたときや、婚約していたときの方が、すごく孤独を感じ、将来どうなるのかわからない不安で怖くなっていました。

 

今も、将来には不安がありますが、自分でどうにかすればいいので、まったく先が見えないことはありません。怪我や病気でどうにもならなくなったら、自治体に相談して社会福祉に頼ったり(親は自分と同じ感じなので頼れません)、それでもダメなら…野垂れ死にますか。

その頃までに、安楽死尊厳死が日本でも認められるといいな と思います。

(自殺願望はありませんのでご心配なく)

 

人は、死に方を重視しますけど、死ぬときは誰もが一人です。

そばに人がいたって、逝くのは自分一人です。

「みんなに愛されて幸せだった。感謝。わが人生悔いなし。」と思いながら死ぬのは幸せかもしれません。

でも、死んだらそんなのどうでもいいでしょ?

 

自分が納得すればいいだけのことです。

「やっと死ねる(寿命が来た)」も幸せではないですか?

(痛いとか苦しいのはイヤですね…やはり安楽死や鎮痛を所望します)

 

私自身は、今の時点、いや子供の頃から、「死」や「人生」を常に意識しています。

かといって「良い人生にしよう!」なんて思いません(思おうとしたこともありました)。

生まれてしまったから生きているだけ。

森羅万象、そうではありませんか?

 

人間だけが、「生き方」や「良い人生」や「愛情」なんて幻想を重視します。

それがないと生きる「意味」がない、「励み」がないのでしょう。

人生は、死ぬまでの「暇つぶし」ですから。

 

子供を産んで育てる。

それは尊いし、人間(生物)として生まれて一番の役割 ともいえます。

でも、全員ができるわけではないし、しなければいけないこともありません。

 

子供は好きです。

産んで育ててみたかったです。

今からでも、孤児など引き取って育てられるならしたいくらいです。

 

けれど、そうでない人生に意味がないとは思いません。

そもそも「意味」なんて、本当はどうでもいいのです。

ただ生きるだけで、それだけでいいと思います。

 

生きるのは面倒です。特に人間は。

「産んでほしくなかった」とさえ思います。一番の後悔は、生まれてきたこと。

私が自分の子供なら、「産まないでくれてありがとう」と思うかもしれません。

 

でも、生まれてしまったからには、死ぬまでの時間を、何かしら意味づけして、できるだけ楽しく満たされた気持ちで過ごしたいのが人間です。

そのために仕事をし、お金を稼いで好きなものを買い、結婚して家庭を築き、子供を育てて遺伝子を残す。

仕事ができなくなってからの老後のために、若いうちにお金を貯めておく。

死ぬまでに必要なお金は大体これくらいで・・・。

 

これで安心 ですかね?

 

私は、先ほども書いたように、同棲や婚約をしているときの方が不安でした。

一人でいる方が平常でいられます。

なぜなら、自分の人生(生活)の半分かそれ以上を、他人(旦那)に委ねることに不安を感じるからです。

結婚後も仕事を続けることは可能だし、旦那以外にも、旦那の家族や子供に頼る可能性もできます。

でも、頼れなくなったら?

そのときになって、自分や家族を養う力がなかったら?

そして、家族、愛する人が亡くなるなどの喪失の機会が増えます。

 

失うことの怖さ。

「持つ」ということは、いつか「失う」ということです。

私は恐らく人一倍、失うことに恐怖を感じます。幼少期の影響だと思います。

 

みんなそのリスクや恐ろしさを抱えてまで、持つことを選び、守ります。

とても強いなと思います。

私はそんなに強くありません。

「自分一人で生きていく」という、違う意味の強さはあります。

みな、それ(一人で生きていく、孤独)が怖いから、結婚したがるのでしょ?

 

いずれにせよ、リスク、怖さ、不安を抱えつつ、その人それぞれが強くならないといけません。

強くなかったら、ふとしたきっかけや瞬間に、この世から去るのでしょう。

今生きている人は、みな、強いのです。

誰しも、一瞬で弱くなる可能性は持っています。

 

そして、雨宮まみさんのことですが。

死因はわからないし、どうして突然そうなったかは誰にもわかりません。

「40才」とはまったく関係なく、たまたま、不注意的な事故や、病因からの事故かもしれません。

どちらかいうと、そちらのような気がします。

突発的な自殺などではない気がします。

 

生き方に正解などありません。

そして、若くして死んだからといって不幸とも限りません。

それがその人の寿命であったに過ぎません。

意味なんてないのです。

 

でも人は意味をつけたがります。

意味なんて、単なる思い込みです。

 

人間の横行によって地球が滅んだとしても、それは地球の寿命です。

意味などありません。

 

かといって、みなが自分勝手に生きていいとはなりません。

死ぬまでの時間を平穏に過ごしたいから、社会を作り、お互いに脅かさないように生きていきましょう というルールを作り従います(そうでない人種、団体もありますが)。

重視すべきはそこです。

文化や技術の進化・発展・繁栄などではありません。

今のそれらが無くたって、人間も動物もその他生物も生きていけます。

ただ生きることが重要なのです。

 

だから、他人がどんな生き方をしようが、迷惑をかけていなければ批難する必要はありません。

 

40才。だからどうした。

独身で悪いか?

貴方に迷惑をかけていませんよ。

 

他人の人生、生き方、年齢をとやかく言う権利はないし、言うなら責任持って協力しなさい。

何もしないくせに偉そうに言うな。

 

あとは、自分が「楽」に生きられたらいいのです。

」は人によって異なります。

誰のためでもなく、自分のために生きればいいのです。

(「誰かのため」も依存です。依存は無責任で迷惑です。)

 

 

飲み会の参加を断ったからって、批難される筋合いはない!

(こっちの話w この話はまたの機会に…するほどの内容でもなさそうです)